ここは個人的な「ガス抜き」をする部屋です。
トゲのある言葉や、激しい表現、元気をなくす・落ち込む話、誰かを傷付ける可能性のある文章などを置いていきます。
尚、今まで書き溜めたモノが殆どで、脈絡なく更新・削除されます。たまに新しい文章を書きます。
特定の個人攻撃をするつもりなど一切ありませんが、気分よく読める代物でないのは確かです。
賢明なる諸氏はその意味がお解かりになると思いますが、
偶然見つけたからといって、面白いものは何もないので、回れ右したほうが宜しいと存じます。
お帰りはあちらです。
そう書いてあるから、興味をそそられる、というのは
「駄目」と言われたら反発したくなる子供と同じで、幼稚です。全く感心しません。
と
言われたような気分になる内容が沢山書いてありますので、その辺ご了承下さい。
怒りは傲慢から生まれる
自分を棚に上げての高みの見物は大変結構なのだけれど、自身の足元を暗くするだけじゃないかなと思う。
そんなに汚泥の中を行きたければ
人を侮蔑し、些事に激怒し、誰も許さず、自己を中心に世界が回ってるような気持ちでスノッブを垂れ流すといい。
強要してもよし。従わないから。
一概には言えないコトを、一概に言ってしまって意気揚々と肩で風をきって去っていく人の背中を見る
何も思わない。
まず自分自身が完璧でないのに
他人の中に完璧を求めるなんて、馬鹿げてる。
失敗だらけでも
とにかく、ここまで生きて来たんだ。
小石ひとつにいちいち足を止めていたのでは、人生は何度繰り返しても足らんのだ。
しょうもない事象に何ページにも亘って説明文がびっしりつくような本を、俺は読んだりしないのだ。
重い頭は置いていく。フットワークは軽くする。
「生きていいよ」と言われ、「幸せになれる」と太鼓判を捺され、「何も心配はいらない」と保障される。
俺の耳にはどれも「愚鈍であれ」と聞こえる。
朱に染まれば赤くなる、という。少し腑に落ちない。
自分も「朱」である一点を欠いている。
ほんの少しずつ、視点をずらしていく試みをしてる。
ほんの少しずつ、軽くなっていく。
いいぞ
マグマは地殻のずっと奥に流れろ。ヘドロは河の底に沈んでろ。
何をどう言ったところで、空は青くて広いじゃないか。
興味のない世界がいくつも肌をかすめていくが、どれも心臓には届かない。
価値を認めたモノは、容易く貫通する。
宮沢賢治は死後に評価された人だった。
なぜ充分な能力があり、努力する方向を間違えなかった彼が生きている間に報われなかったのか、と思うと
なんとも辛いものがある。創作をやる限りは他人事じゃないんだ。
今は地球の端から端でもネットで交信できる。「Hello」のすぐ後に「こんにちは」で返せる時代だ。
”良い”と感じたらその場で評価できる時代だ。
賢治がいまの時代に生きてたら、「雨ニモマケズ」がただの手元のメモで終わることも無かったハズだ。
時代が悪いとは言わない。根本的な部分は今だって同じだ。
能力のある人間はそれ相応の金銭と評価を受け取るべきだ。そういった正しい構図を目の当たりにして安心したい。
報われろ。
報われないのは悲劇以外の何物でもないんだ。
創作者は人格者である必要はないが、同じ人間なんだ。
人との関わり合いなしに生きていける創作者なんて居ない。居るはずがない。木や石を相手にしてるワケじゃないんだ。
ちょっとばかりの技術や能力を必要以上に大きく思い、取るに足らない努力をして、人を見下し、
まるで自分が選ばれた人間であるかのように振る舞いたくはない。
宮沢賢治のように生きたかった。
苦しみを苦しみと思わず、誰と比較するでもなく、淡々と静かで、ひたすらに優しい。
そんな生き様に憧れる。
誰もが暗黙の了解のもとに
揃って口を閉ざすのは、一種の「思いやり」ではないかと思ってる。
むき出しの感情にはギラついた醜さやトゲがあり、故意でなく人を傷付ける性質を持っている。
それなら自分がその事実を飲み込んで笑ってればいいや、と。そうなる。
しかし笑えない場合もある。
蓄積された無言はフラストレーションとなって、マグマのように内面を焼き続けるかもしれない。
いつか胸中のマグマが火山を形成し、噴火する時が来るかもしれないなら
いっそのこと、激情を思うさまに叩きつけるのもいいかもしれない。
「お前は間違っている」 「いいや俺は正しい」
これで議論は終わった。
あとは感情論になるばかりだ。各々のロジックを手に取って戦ってくれ。解散。
よく”理解に苦しむ”って表現を目にするけど、
なんでもかんでも理に落とし込まなきゃいけないって方が窮屈で苦しそうだ。
子供の頃はそんなつまらない遊びはしなかった。
自分に甘ったれた感情だけで生きていけたら楽だよな。
本当はみんな真実に気付いていて、俺だけがそれを知らなくって
優しさゆえに、みんな揃って口を閉ざしてるんじゃないか、と思ったりする。
邪推だな。しかしそういう気分になるコトはある。
「お前には売れるためなら何でもやろう、という気概がない」
反論。
「何でもやった結果、それでも売れなかったとする。じゃあ自分を捨てた先に何が待ってる」
それなりに真っ当に見える人が「俺は人間のクズです^^」みたいなコト書いてるの見るたび、
俺が今までに見てきた本当に救いようのないクズを、どう形容したらいいのか分からない。
人は自らの醜さや愚かさにフタは出来ない。
それをちゃんと認め、しっかり踏まえた上でどうにか前に進む。
「なんであの時、多少無茶してでもやらなかったんだ」という後悔が
内臓を焦がすほどの痛みに変わる。
うやむやの先延ばしにして変わった世界があっただろうか。
敵が出てきたら戦わないと死ぬ。目を閉じて「居ない、居ない」と念じることで、
得られるものが一体、如何ほどのものか。
さあ、日本人の美徳は「前にならえ」か。「前にならえ」なのか。「前にならえ」だと言うのか。
怒りだけは毎度ながら色褪せないな。原色のペンキをぶちまけるようだ。
どうしていつも、殴られないと分からないんだろう。
敗北し、激痛に苛まれ、絶体絶命の危機が目の前に迫らなければ、目が覚めないんだろう。
痛みを知って初めてその価値が分かるだなんて、
なんて愚かなことなんだ。
拗ねるな、スレるな、捨てるな。
作ってる途中は「傑作だ」と毎回思うが、
音のバランスを調整する段階で何度も聴いてるうちに、まったく良いとも何とも思わなくなる。
自信なんて日替わりで、普通に生活してればいとも簡単に消滅する。
さんざん嫌になって諦めて、
誉めるべきものが何もない状態で作品を発表して、評価されないと「ああ、やっぱりな」と思うし
評価されれば「ああ、そうなんだ」と他人事みたいにぼんやり思う。
そうしてある日、ふと、街なかでmp3プレーヤーをランダム再生してる時、自分の曲が流れて
その時ぐらいになって、本当に心から喜べる。
面倒だ。厄介だ。くそう。
社会や世間や、自分の周囲に、うっすらと膜が張ってある。この膜の内側に居る限り、リアルではない。
気付けば自分にさえ、膜を張っている事がある。
皮膜をつき破るまで、何度でもジャンプする。何度でも突き破る。
そういう風にやってきた。そのようにやっていく。
特に音楽なんかはそうだけど、
作業に没頭してるときは、針が感性側に大きく振れてるから、誰とも話したくない。
きちがい扱いされるから、関わりたくないのだ。
「何でも出来ます」では駄目だ。「一つしか出来ませんが、特化しています」だ。
お前は全てにおいて中途半端な存在になっていないか。
真剣になってない奴ほど、嫌な目線を獲得する。
お前から見えるその世界は、そっくりそのままお前自身のうつしだ。
「こんな世界滅べばいい」
それを直訳すると「俺は死にたい」だ。
人は間違えたままでも大きくなってしまう。大人になってしまう。
間違えたまま子供を産み、育ててしまう。
作曲が一向に進まない時って、大体が 「他の上手くいってない事柄」 に精神活動が阻害されてる状態で、
作曲ソフトを立ち上げるのすら躊躇うほど、全く集中できてない場合が多い。
さあ、そこでこの問答だ。
「今までに一度でも、何もかも上手くいった日がありましたか?」
「ありません」
「その上手く行ってない事と、今やるべき事とのあいだに関連性はありますか?」
「ありません」
「じゃあ通常どおりのコンディションですよ馬鹿たれ」
「すみません」
いっそ気でも違ったほうが、どれだけ楽かわからない。
たーまに、何のために目と耳がついてんの?となじりたくなるのは、俺が疲れてるからに違いない。
そうに違いない。
でないと普段のコチラの思考が狂ってるというコトになる。
心理学者は文学だけど、他の作家と違うのは「人間の心のプロフェッショナル」を自負してて、
驚いたコトにたまーにそれを自称したりする所。総じて脳みそがどうかしてる。
体の成長が20歳あたりで止まるコトにちなんでるのかもしれんけど、
なんか精神もそこらへんで止まって退化していく、みたいな考えが蔓延してる気がする。
成長するのを諦めたのは他の誰でもない、お前自身だ。
人間の根底にあるのが残虐性・残忍性だなんて、決めつけてくれるなよ。
それぞれの魂の処理の仕方によっては、それこそ人は天と地ぐらいの差異がある。
極限状態、というものだけで人間の真価は問われない。
追い詰められれば逃げる、戦う、というのは、命をもつ限りは当然だ。
本能というより「反応」に近い。ノドが乾けば水を欲するのと同じ。そこに人間性を問うのは甚だ無茶な話だ。
それよりも
人間を人間たらしめている部分。つまり自身の社会、世間、生活圏において
普段、どんな行いをしているか。それが最も重要な根幹なのではないか。
「真実は行為で示され、それを飾る言葉は無い」、とシェークスピアは書いた。その通りだと思う。
毒舌を気取った坊やほど見ていて恥ずかしくなるモノはない。
毒ってのはたいていが薬に転じる。だからこそ心にグサリとくる鋭い視点、本質を見抜く目というのが評価されるのだ。
坊やは自己顕示欲の塊になって虚勢を張る。傷付けられないようにナイフを振り回す。
見るに堪えない。
裏切り、甘え、傲慢。この三つの順番で許さん。
ので
自分に愛想を尽かすことが多い。
「マナー悪い奴ってほんとクソだよな、マジ死ね。氏ねじゃなくて死ね」
的な発言を見るたびに、ツッコミ待ちなのかな、と思う。
喧嘩の話。
「その攻撃の仕方では無効だなあ」という場面がいくつかある。
同じ土俵で語るべきでない分野へ、遮二無二つっこんで行くのは不毛だろう。
戦闘機に向かってブレイクダンスで勝負しよう、と言ってるようなモンだ。
その例えはちょっとどうかと思ったけど。
世の中キレイゴトだけじゃ回らないなんて誰でも知ってる。
だから自身の理想を傷付けないように、汚されないように、自分の手を汚して汗水を流しながら
追い求めていかなくちゃいけないんじゃないのか。
もう会えなくなった友人のことを思うと、胸の奥が沈む。
歩いてきたのだ。ずっと。
あいつには勝てないな、というのは諦めじゃなくて、全身全霊で相手を認めることだ。
だから俺は「負けない」と。そういう見栄を張る。あいつには負けないと。
実際は勝って負けても納得できればいいのだけど、兎にも角にも必死でやってきた。
頑張らないと。力を示さないと。思いしらせないと。
そんな方法でばかり考えてしまう。無理をしてしまう。なあ。お前はどうしてそのままの足でそこまで歩けたんだ。
もしまた会えたなら、教えてくれ。
余裕を振りまくポーズを取っていれば、実際に余裕が出てくるんじゃないかな、と
いうワケで悠長なコト書いたりしますが、いつだって死に物狂いですよ。
誰かの我慢や忍耐で、これまでの快適な空間が守られてきたことを知らない人間は多い。
そして
文化が廃れていく流れを止めることは誰にも出来ない。
高尚な先生方のお言葉や、お説教や、スノッブや、子供の自己主張なんかは聞くに堪えないけれど
あまりにも大声で叫ばれたら、胸が詰まってしまう。
どう考えてもROCKが一番だ。もう死ぬまでROCKしか聴かなくてもいいぐらいだ。
インテリジェンスな若者が自分の立場や世間体なんかをかなぐり捨てて叫びまくるのも好きだし、マッチョがただ純粋な怒りのままに轟音をぶち撒けるのも好きだし、世間を鼻で哂うかのような冷徹なビートを刻みながら淡々と所感を述べるのも好きだ。
ROCKが好きだ。
狂気を体現するようなROCKが最高だ。キレろ若者。ぶち切れろナイスミドル。
しかし、気取ったROCKは駄目だ。嫌いだ。
一線で戦ってきた人間は、そんな軽々しく誠意に欠ける断定などしない。
言っていい言葉と、悪い言葉がある。
謝れ。もしくは失せろ。
本物はみんな荒野を彷徨っている。
なぜその人を、みんなで山の頂上へ連れて行ってやらなかったのか。
こんな体質や構造では いずれ本物は居なくなる。
大量生産されたおもちゃのような曲が、ショーケースに飾られている。
クローンがクローンを作る。そんな時代が来る。
仕事もしないで「恋がしたい」とかのたまう奴を見て、悪い夢かなんかかと思った。
こいつは最高だ、そうだその通りだ、みたいな風潮はもういい。
自分で判断しろ。何のためにその目とその耳がついてる。心がある。
才能という言葉が嫌いだ。
努力を放棄した自分への言い訳、とりわけ緩衝材として使われる場合が多い。
お前は努力しなかった。
だから「自分には才能がない」という言い訳に逃げ込んだ。
「あいつは才能があるから」と、必死で頑張ってきた奴を一言で片付けた。
あまり人を馬鹿にするな。
人間の裏側(と感じる側面)を覗くコトで、
人のこころ、しかも「本質」などを理解したつもりになってる輩は多い。
表面も本質だ。
もっとよく見るコトから始めろ。その目を愚かさに曇らせてしまう前に。
懸命に生きている人を、土足で踏み躙るような輩を、俺は人間とは思っていない。
思いやりや人から受けた恩をいとも簡単に忘れる。裏切る。
愚かなのだ。
いつまで経っても自分の事しか考えられない。そういった傲慢さ・愚かさが、人をいつか人でなしにする。
自分の事すら見えてないだろう。視点が低い。視野が狭い。ゆえに視界が悪い。
人でなしに同情の余地はない。死ぬまで何も見えないまま、過ちを繰り返し続け、泥沼でもがき続けるだろう。
俺は応援したい。
裏切られても、心が血だらけになっても、それでも明るく前に進もうとする人を
応援し続けたい。大音量の声援で。
それは自分自身に向けた言葉。 俺はずっと俺の人生を励ます。
「人の気持ちになって考えろ」、とよく言うけど、本当に難しいことだと思う。
攫ってレイプした女の子を、生きたまま山の中に埋めて帰る奴等の気持ちなどは、流石に俺には想像できない。
学生時代の先輩が、知り合いから聞いた話だという。
当然、尾ひれがあるのだろうと思う。
けど、それを聞かされた時の俺の虚無を、何に例えられるだろう。
物語だったらいいんだ。「コレはそういう悲劇でした」って言ってくれればいいんだよ。
しかし世間ってやつは本当に下劣で下品で下世話な話が大好きだ。その快楽の為には、畜生にも劣る虚構を平気で埋める。
罪の行方は何処だ。人の気持ちになるなんて不可能じゃないのか。
「人の気持ちになって考えろ」
それは、難しい話だ。
偶然ここを見つけ、
注意書きがあるにも関わらずここまで読んでしまった方。ご愁傷様です。
一人で書き溜めたtxtデータが4MBを越え、何度か読み返すうちに、もうどこかに吐き出さないと気持ちが落ち着かない、収まらない状況でした。
ゲロを見せられるのは大変不愉快でしょうから、こんなトコロにこっそり書いております。
しかしこれが私の本質というワケでなく、側面の一つです。
どうも、人間というやつは両面どころか、信じられないほど多面性を持っている生き物だと思います。
だから一人の人間から矛盾や意外性などが生まれ、面白いなあなどと思ってしまうのですが。
最後に
こんなトコロにまで興味を持って頂いて感謝します。ぜひ「表」のほうもこれからも宜しくお願いします。
―追記―
読み返すたびにこころがザワついて、暗い気分になるんですが。まあ仕方ないね・・・
もし私が物書きだったなら
こういった文章を”作品”として叩きつけるコトも出来るんだろうけどなあ。それは爽快だろうなあ。
難しいモンです、人間ってやつは。
2013 裏獅子